2013年4月14日日曜日

2,皆さんと同じくらいの年だったとき


京都芸大の恩師木村英輝の目でとらえた坂井直樹

京都芸大の私の恩師、木村英輝が学生当時の私の様子から今に至るまでの経緯を、彼の目をとおして書いてくれました。


















彼は私の人生に大きな影響を与えた人です。誰にでも何人かは、こういう人を人生に持つものですね。これも幸運なことだと思います。しかし、一方で過去の自分は、ある意味別人のようにも感じ ます。不思議な感覚ですね。皆さんはどう感じますか。

MOJO WESTの前身TOO MUCHの火付け役になった美大生が、
あの日産コンセプトカー「Be-1」をデザイン・プロデュースした坂井直樹だ。

ロング・ヘアーで茶髪、フリルの付いたシャツ、薄化粧、指にリングが一杯、そして  ハードな黒いサングラス、こんな出で立ちの美大生が現れた。美大は(京都市立美術  大学、現・芸術大学)公立校、受験の難関を突破してきた画学生ばかり。汚れた作業着が定番だった。35年も昔のことだ。彼はピーター(池畑慎之介)に象徴されるピーコック・ファッション革命の先陣を走っていた。彼こそがその後、Be-1(日産の限定  車)やSF・MOMA(サンフランシスコ近代美術館)に永久保存されたオリンパスのカメラ「O-PRODUCT」(デザイン:山中俊治)等のデザインで一躍名を馳せる坂井直樹である。

彼は大阪、四条畷駅前のサカイ運送の長男。四条畷とは今東光が言う"河内のヘソ"の  様な所。しかも彼は四条畷高校のラグビー部だったと言う。バリバリの河内野郎と言ってもいい。親父の生家は京都の帯屋、古典を重んじる家系、今も叔母は
京都・白梅町で坂井春陽堂という骨董屋を営んでいる。坂井直樹は、ともすれば軽薄だと誤解されやすい身なりでファッション系の仕事をしてきた割りには大 胆で男っぽいのは、育ちは河内、血は京都という生い立ちのせいかもしれない。荒々しい河内の根性と京の雅な感性による彼の発想の根っこが垣間見える。

美大のビジュアル・デザイン専攻の学生だった彼はポップ・アートの旗手アンディ・ウォーフォールや電子メディア論を展開するマーシャル・マクルハーンに 強く魅せられる。勿論、教条主義的な美大のカリキュラムには、そんな教科はない。講師だった木村英輝と友人達のマーケティング関連のデザイン事務所 「RR」にには、その種の面白い情報が転がっていた。彼は美大よりも「RR」に通うようになる。

オルタナテブ、従来の価値観を見直そうとする時代だった。グッド・デザインは工業化社会にとって都合が良いが、人間にとっては好ましいモノなの か?-----グッド・デザインはモダニズムの美しさはあるが非人間的だ。それに比べれば、バッド・デザインには人間の暖かさがある。坂井直樹は産業優先の近代化社会に疑問を抱く。そんな彼は、誰も立ち入らなかったアウトローなデザイン"入れ墨"に興味を持つのだ。コカ・コーラ大好き青年だった彼は、 背中にコカ・コーラの入れ墨を彫りたいと考える。それだけれは終わらなかった。彼は入れ墨をした背中を広告媒体にしようと電通にプレゼンテーションする。媒体料は1億円。突拍子もない企画だったが、電通の窓口は真剣に検討しようとしたという。しかし、入れ墨は牛の焼き印(ブランディング)にイメージ が重なるなど、まだアメリカ社会でもタブー視されていた。結局、広告には向かないと没になる。

「何を、やっても良いが、彫り物だけは止めてくれ」彼の祖母からも、きついお達しがあったと聞く。彼は諦めなかった。キッチュなファッションとして入れ墨Tシャツを思いつく。そのTシャツを携えてサンフランシスコへ行く。そこにチャイニーズの投資家が目を付けた。彼は入れ墨をジャパニーズ・アールヌーボーと感じた様だ。お陰で売れた。TATTO  COMPANYという会社も作った。ちょっとした、ブームにもなった。この入れ墨シャツが坂井直樹のデビュー作の一つとなった。その後ブレイクする彼の デザイン・プロデュースの原点にもなる。

彼は日産の小型車「Be-1」で限定生産という京都の工人達が今も守りつづける本物作りの方式を提示。より多くより早くより安く、と言う誰も疑わなかった産業革命以来のマストプロダクト思想に疑問を投げかける。又、オリンパスのカメラ「O-PRODUCT」ではボディにはプラスチック以外はないとされてきた業界の神話に挑戦する。坂井直樹は、いままでの"専門家達の概念"をことごとく覆すのだ。彼は「その時々に強く惹かれたものにただ一直線に向かったに過ぎない」と言う。生活者の目線で業界のプロ達に問うのである。プロダクションとマーケティングを同次元で捉え、エンド・ユーザーのモチベーション
を阻害する"プロ意識"を取り払った。業界のプロ達から彼のデザインは「素人臭い、モノ真似」と酷評された。しかし、ヨーロッパのモーター・ショーではコンセプター坂井直樹はデザイン界のグル(教祖)だと高く評価される。大企業の経営陣をたらし込んで、いつの間にか彼の世界へ誘い込んでしまうプロデューサーとしての才能に注目したようだ。「テクノターザン」と朝日新聞で書かれたのはそのころだ。

コンセプターとはCONCEPTION(聖母マリアの受胎)を語源とする。それにファッションから都市計画までをプロデュースする浜野安弘が表現した 「コンセプト・ワーク」(概念、考え方)が入り混じって生まれた造語である。プロデューサー、コーディネーター、ディレクター、デザイナー、モノ作りに 携わる職名が色々あるが、その仕事内容はいたって不明瞭である。彼はコンセプターという造語によって、その曖昧な役割のすべてを統合し、専門家達による分業体制を越えたデザイン・プロデュースを全てやってのけたのだ。

1968年、美大生、坂井直樹達が、何かカッコ良いこと、夢中になれることを求めて、キャンバスから街へ飛び出す。「動いているストリートや街角が好きだった。毎晩の様にディスコへ、そこで、ファッション・ショーやハプニングを頻繁に企画する。その延長線上にロックイベントTOO MUCHがあった」と彼は振り返る。やがてTOO MUCHは、MOJO WESTの火付け役になるのだ。MOJO  WESTの誕生には多くの若者が関わって来た。時代の後押しもあった。ロック・ムーブメントMOJO WESTとなって羽ばたくのだが、その前身TOO  MUCHとそのイベントを盛り上げた美大生達を忘れることは出来ない。

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